
平成21年も師走を迎え、あと3週間で年が改まるという押し詰まったところまで来た。今年は月初めからよい天気に恵まれていたのであるが、この3日間は毎日雨となって、土曜日もどうかという気をもむ状況の中でまちづくり交流ウォークを迎えた。しかし朝起きると雨は上がったような感じであった。
とにかく集合場所のJR下祇園駅に向かった。そして下祇園駅に着いたのだが、珍しいことに主催者の顔が見えない。不思議に思いながら待っていると参加者は次々に列車から降りてくる。
待ちながら辺りを見回していると何処かのおじさんが駅の植木をせっせと葉を落としている。
「風が吹いて枯れ葉が飛び散らないようにしているんだな」と思い見ていると、どうも違うんだなぁ。やがて葉を全部落としてから木を切って軽四輪に運ぶ。
「ううんっ、何で切るんだ」なぜかは分からなかったが、切った木には黄色い花が付いていた。どうやらロウバイらしい。でもなぜ切るんだろう。
やがて定刻となり藤井先生などスタッフもどんどん集まったけど、それでも主催者の片岡さんはやってこない。主催者が居らねば始まらないから誰かが電話した。漏れ聞いているとタクシーという声も聞こえる。
「ははぁ、列車に遅れたのか」そう思い待っているとタクシーがやってきた。
「ごめんごめん。寝坊しました」ふふ寝坊とは。

かくして定刻より15分ほど遅れて12月のまちづくり交流ウォークは始まった。藤井先生が駅前の道を指し
「これ雲石街道です。出雲・石見に行く道です。可部で出雲と石見行きが別れます」いつも何気なく通っている道ではあるが、古い街道道とは知らなかった。
その雲石街道を下祇園駅から数十メートル歩いたところに一軒の古い民家がある。ずいぶん大きく立派な民家である。
「この家は大下家といって福屋の社長さんの家だそうです。この大下家は昔は大下回春堂といってフマキラーの会社を作った一家です。今は本社は東京ですが、工場は何年か前に祇園から大野に移っています」
「この家もうだつが上がっていますね」
「フマキラーというのは殺虫剤ですね。《フライ》というのは蝿、《モスキート》というのは蚊、その蝿や蚊を殺すというので《キラー》、《フライモスキートキラー》。これでは長すぎるので略してフマキラーになったそうです」ふ〜ん、まあおもしろい話だ。しかしこの民家はよくよく見るとずいぶん贅を尽くした建物だというのは分かった。

大下回春堂というのは今はないという。その跡地は、確認は取れていないが、この民家のすぐ近くの公園ではないかという。その公園に行った。ここには「水準点」が設置してあった。だがその水準点を示す看板は公園の中からは見えない。それで誰かが
「まあ役所というものはこんなものだ」とつぶやいていたが、僕にはその看板は道路から見えるように設置してあるように思えた。
この公園の中にチャータナイトの15周年記念の時計塔があった。チャータナイトとは、結成されたライオンズクラブが国際理事会よりそのクラブを国際協会の一員としてチャーター(認証)し、その証(あかし)としてのチャーター(認証状)をおくる伝達式のことだという。チャーターされたクラブは、その日からライオンズクラブ国際協会の会員となり、全ての権利・義務が与えられるそうだ。まあたいそうなことであるので、その記念に時計塔を建てたのであろう。
この頃雨が降り出した。しかもかなり強くて傘が必要だ。こういう歴史ウォークで雨が降ると参加したいという気持ちは萎える。鞄から傘を出して開いたが、首から下げているカメラは傘があっても濡れる。どこかでリタイヤしようかという気持ちが浮かぶ。

この公園のすぐ近くが安川緑道である。安川緑道は昔の安川廃川敷きを緑道として公園化したものである。ずいぶん長く3キロぐらいある。昔の川だから当時橋が架かっていて、その橋のいくつかはまだ格好が残っているという。僕たちの行った夢タウンの近くには「酒屋橋跡」という石碑が建っていた。
雨は止まない。雲石街道は車の通行が多くて危険だからと、できるだけ間道を通るルートにしたと片岡さんは強調していた。そのためコースはジグザグに曲がる。そして余所の駐車場を横切り勝想寺に行く。
この勝想寺には桑原卯之助の墓がある。そのためここをコースに入れたと説明があった。そして桑原卯之助の話が延々と続く。卯之助は八木用水の建設で功のあった人物である。
もともとこの付近は古川・太田川、安川という三つの川が流れていたが、水位が低く水を引くことができなかった。卯之助は太田川の上流から水を取り入れれば、水の勢いが得られると気が付き入念な下調べを行い、工事の許可を求める「願書き」を代官に差し出し、自分の命までかけて工事を行った。卯之助がつくった八木用水は、十歩一(取り入れ口)から打越の終点まで、総延長16Kmである。八木用水が作られてから230年以上経つが、その間水がかれたことはなく、迷路のように広がった用水のおかげで、田畑が水不足に悩まされることはなくなったという。
実際の卯之助の墓はなくて、いまは子孫の人が立てた墓石が立っていた。写真を撮ろうとすると傘が邪魔で、しかもカメラが濡れる。しかし次の安芸津神社に行くとこの雨も収まった。
「やれやれだ。もう収まるのかなぁ」とつぶやくが誰も返事しない。返事するまでもなく、また降り出すのだが。

安芸津神社はそれなりのよい神社である。いわゆる天満宮の系統で設立は寛永元年(1624年)だという。宮島の厳島神社の末社らしい。ここには古い灯籠があるといわれた。
祭~の安芸津彦というのは神武天皇の下で色々と働いた人だと藤井先生はいう。調べてみたがどういう人だったのかよく分からなかった。ここの神社の彩色された狛犬は珍しかった。
このすぐ隣が鴎州学園で、土曜日だったので門は閉められていた。ここから細い裏道を通り如来堂に行く。この如来堂は民家のすぐ横にあって、一見して人の家の庭にあるような感じだった。この如来堂は大日如来と弘法大師、不動明王の三尊が祀られていた。
この三つの仏について解説されたのは、大日如来が真言宗の元々の開祖で、不動明王は大日如来の生まれ変わり、そして弘法大師は大日如来の8番目の弟子だという。
再び雲石街道に出る。車が多くて横断するのも難しいぐらいである。いつもは自分は車で走っているので歩行者の目でこの道路を眺めるのは初めてである。たしかに車がひっきりなしに通り付近の人は迷惑しているだろう。
この街道に恵美須神社という小さな神社があった。その少し先に大きな常夜灯が見える。いつも車から見てはいたが、この常夜灯に篆字の彫り物があるのはよく見てはいなかった。藤井先生は
「あれは篆字といって古い書体ですね。そしてああいう風に彫ってあるのを篆款(てんかん)と言います」と解説した。
ここから安神社はすぐである。安神社は古い神社で安芸の国鎮護の神として敬われていた。現在もその広い境内に面影が残っている。
考えてみれば、30年前に山を削ってできた毘沙門台の団地には氏神様がない。歴史の長いところの神社は有難い存在だと言うことができる。
ここで昼食となり初めてイオンモールに行く。このイオンモールは昔は三菱重工の工場だったところで、イオンモールとして再生したのは昨年である。ここで食事をして午後となったが、空を見ると今にも泣き出しそうな雰囲気である。とうとうリタイヤして僕一人逃げ出した。

