「まちづくり交流ウォーク」というのは、どこが「まちづくり」なのかさっぱり分からない。でも分からないままに、もう20回も参加したろうか。今回三滝コースに参加した。久しぶりである。集合場所の三滝駅に行くと顔見知りが何人もいて「こんにちは」と挨拶する。こうしてみるとたまにしか参加しない僕もいっぱしの古株になっているのかなぁ。
 平成21年11月14日は良い天気だった。暖かくなりそうな予感もする。夕べの雨があたりの空気を清浄にしたと見えてすがすがしい。
 久しぶりの参加だからレジュメは貰えないかと思っていたが、申し込むとあっさりとくれた。200円である。レジュメに付いた地図を見ると、まっすぐ三滝寺に行くのではなく、やはり大回りしていく行程となっていた。
「今日は弁当を先に買わなくてもいいですか」
「今日は三滝寺で昼食になるので、三滝寺の中に食堂がありますよ」
「そうですか。それじゃそうしましょう」
 JR可部線の三滝駅は無人駅である。その無人駅のホームに30名ほど人がたむろしている。このほぼ全部が今日のまちづくり交流ウォークの参加者である。やがて列車がやってきた。しかし乗る人は居ず降りる人は二人だったかなぁ。僕は無人改札口のところで切符を持ってうろうろしていると、電車の車掌が
「どちらまで行かれますか」
「いやこの切符をどこに入れたらいいのか確かめていたのです」
「あ、それはここに入れるのです
「ありがとう」

 


 時間となって歩き始める。最初の見学は「三滝参道道標」である。いつ頃置いたものか知らないが、「左、三瀧観音みち。右、親鸞聖人尊像道」と書いてあった。
 そのすぐ側に「桜橋」と書かれた小さな橋がある。その橋は道路に斜めに架けられているため左右の欄干が非常にずれている。川幅はわずか2メートルほどのものであるのに、イメージとしては道路と川の交差角は約60度である。そのため進行方向に向かって左の欄干が終わってもまだ右の欄干は始まらない。
「こんなにずれているのは珍しく、ギネスに申請したら載せて貰えるかもしれないですよ」と案内の片岡さん。
 まあギネスはさておいて、確かに珍しい橋ではある。
 ところで、次は海雲寺であるが、
「誓願寺のお坊さんに10時半に行くと伝えていますので、海雲寺は省略します」だって。それなら初めからコースに入れなきゃ良いのに。
 その誓願寺であるが、なかなか立派なお寺だった。その「誓願」の由来を住職さんは語った。それによると、
 誓願寺は紫雲山・光照院と号し、天正18年(1590年)10月15日に策伝(さくでん)上人の意向を受けた毛利輝元公が材木町(現在の平和公園)の地に開基しました。この場所は爆心地より400mのため、昭和20年(1945年)8月6日の原爆で灰燼と帰した。戦後になり平和記念公園建設のための区画整理により、昭和38年(1963年)現在の広島市西区三滝本町に移転・再建されたという。
 さて「誓願」の由来であるが、奈良時代に天智天皇が奈良に都を造るときに天智天皇の誓願によりお寺を造ったという。その後都が京都に移ったのであるが、広島に毛利輝元がお寺を建てるときにときに、策伝上人が奈良誓願寺の額と阿弥陀像を持ってここに来たことから「誓願」の字を流用したものだという。
 なお、その由来の阿弥陀本尊と過去帳は戦争中疎開させていたので無事だったそうな。
「だから古いお仏像なので黒ずんでいるでしょう」と住職
は自慢する。
 策伝上人というのは説教のうまいお坊さんだったそうで、笑いを取り入れた説教であったという。その話は八巻の冊子に書き残してあるという。そのことから策伝上人を「落語の開基」とも言うそうだ。

 誓願寺を出てから、道は東の狭い道へと進む。「八丁」とか「十丁」とかの道標を見た。
 そして日渉園跡というところに着く。この「日渉園」というのは広島藩の藩医が寛政10年(1798年)藩の薬草園として開園したものである。当時は2700坪ほどの広さだったらしいが、今は庭園のごく一部だけが残っている。
 現在残されているところは昔の庭園と住居跡のみであった。この住居にはむかし蘭学者の高野長英が隠れ住んだという言い伝えも残っているそうだ。こういうところはこの交流ウォークでないと行くこともない貴重な経験である。
 次いで親鸞聖人像跡に行く。この像は昭和12年(1937年)に建立され、昭和20年の原爆にも被爆したという。元は個人のものだったそうで、昭和20年代に市に寄贈されたという。ところが政教分離を建前とする広島市は仏教の像を受け取れないとして昭和30年に「ノーモア広島を訴える」という理由をつけてニューヨークにやっかい払いの形で移設したという。まことに心の狭い行為ではある。そして現在は親鸞聖人像の台座と周りの広場が残っているだけである。


 誓願寺を出てから、道は東の狭い道へと進む。「八丁」とか「十丁」とかの道標を見た。
 そして日渉園跡というところに着く。この「日渉園」というのは広島藩の藩医が寛政10年(1798年)藩の薬草園として開園したものである。当時は2700坪ほどの広さだったらしいが、今は庭園のごく一部だけが残っている。
 現在残されているところは昔の庭園と住居跡のみであった。この住居にはむかし蘭学者の高野長英が隠れ住んだという言い伝えも残っているそうだ。こういうところはこの交流ウォークでないと行くこともない貴重な経験である。
 次いで親鸞聖人像跡に行く。この像は昭和12年(1937年)に建立され、昭和20年の原爆にも被爆したという。元は個人のものだったそうで、昭和20年代に市に寄贈されたという。ところが政教分離を建前とする広島市は仏教の像を受け取れないとして昭和30年に「ノーモア広島を訴える」という理由をつけてニューヨークにやっかい払いの形で移設したという。まことに心の狭い行為ではある。そして現在は親鸞聖人像の台座と周りの広場が残っているだけである。
 さらに三原淺野家の墓所などを経て三滝寺に近づく。その途中に「大東塾14烈士の碑」というものがあった。古びた碑ではあるが誰かが手入れはしているようだ。引率の片山さんも奥歯に物の挟まったような感じで詳しくは話さなかった。それで帰ってから調べてみた。
 昭和20年8月15日、東京都渋谷区代々木西原の大東塾では朝から一同謹慎、正午、塾神前にラジオを据え、影山庄平翁以下一同、禊の上慎みて玉音放送を拝聴、慟哭す。塾長代行の庄平翁は「全く何と天子様に申し訳したらよいか、お詫びの言葉も無い。我々は本当に心から責任を感じなければならない」と述べられる。塾内においては、割腹自決して陛下にお詫び申しあげ、熱祷以って祖国再建の人柱に立つことを決意する。8月25日午前2時お世話になった方々に対して一礼と最後の別れを行った上、出発。午前4時、代々木練兵場の通称十九本のけやきの西端で、全員見事に割腹自刃。この時、検死を担当した寺田検事は後に「かく多数の人々が純日本式に一糸乱れず見事に行った集団自決は戦前においても、また今後においてもおそらく初めてで、そしてまた終わりであろうと思う」と語っている。 
 たしかに「烈士」といわれて良い人たちではある。もし彼らが今の日本を見たら何と言うだろうか。
 この後、三滝寺に着いて昼食となった。